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2016年12月14日 (水)

前田蓮山の生涯

この記事について、ウイッキベキア「前田蓮山」は2017/6/17の前田連望による投稿はこのwebページの作成者によるものです。

前田蓮山の生涯

前田蓮山(まえだれんざん)本名又吉。明治7年(1887年)10月2日(1887年)~昭和36年(1961年)10月5日。明治・大正・昭和の三代にわたる政治記者、評論家。政党政治の盛衰を自身の実体験で表裏からとらえ政党政治史、人物評伝として表す。代表作「原敬伝」「床次竹二郎伝」「星亨伝」「歴代内閣物語」「自由民権時代」 筆名は蓮山生、元龍山人、無名隠士、無名居士、覆面士、鬼谷庵先生、金剛眼など

生涯

1;生い立ち

長崎県諫早市森山村の農家の村役であった又次郎、イヨの二男として生まれる。小学校時代には神童呼ばれ、一度おそわったことは、決して忘れなかった。曽祖父が買ってくれた漢字の字引で、十八史略、日本外史、国史略、論語などの漢籍及び徒然草とか竹取物語とか今の中学程度の国文は独学で読み取れるようになった。

十三歳ぐらいで唐詩選も読み漢詩の作り方も覚え、「蓮山」という雅号をこの時期より使用していた。「蓮山」という号の由来は、一家が蓮華石岳という山の麓に住んでいたことから蓮という字に山をあて、「れんざん」と号した。

一四、五歳では、馬琴の小説はほとんど読み尽くし、八犬伝などは三度も読んだ。その他、多くの軍談本に読みふけった。

その一方では、数え年十才くらいの時に、早くも自由党の洗礼を受けた。

小学時代に、新聞も自由に読めた少年又吉は、先生から借りて読み、更に新聞紙に連載していたロシアの虚無党を題材にした小説などは、毎回写し取った。

そして『自由教育か国家教育か』と題ずる論文を書いて、先生に見てもらったこともあった。数え年十四、五才になると、先生たちが数人集まって演説の練習をする会に出席し、大人に混じって自由民権論を弁じなどした。

 

2;青年期

明治23年(1890年)一六歳で、士官学校にはいる目的で、その準備の為、佐賀に出て初めて英語を学んだ。

しかし、士官学校に入るまでの学資が続かないようであったので、陸軍教導団という下士官養成学校に入ろうとした。しかし、よくよく調べると、制度変更があって一六歳では入れないことが分かり、やむなくこれを断念した。

そこで、九月から長崎に出て、柴田英語学舎学校(この学校の創立者は柴田昌吉で長崎英語伝習所に学び、後に英語学校を創った。)に入った。 というアメリカ人の宣教師から英語を習った。 英語や普通学を私塾あるいは独学で学び準教員免許状を取り、明治26年(1893年)、長崎県尋常師範学校に願書を出したところ合格した。

生徒になってからも英語の勉強を続け、明治30年(1897年)3月尋常師範学校を卒業。二十二歳。卒業者は一九名であった。卒業後すぐ東京高師へと進んだ。その時、長崎から入れたのは師範学校訓導をしていた富永岩太郎と蓮山の二人だけであった。

高師在学中に盲腸炎になり、生死をさまようよう事態となり、結局二ヶ月間入院をした。体力気力も失せ、学業を続けることが困難な状況になったために帰郷。

明治32年(1899年)。再び上京し、東京専門学校(早稲田)の哲学科に入り、更に英語政治科に移った。この時は外交官になろうかと思ったからである。

ところが授業が面白くなく一挙に高文誠験を受けようと決心、図書館通いをはじめたが、長続きせず、外交官試験を受ける自信はなく、これからどうしたものか思案してブラプラしているうちに早くも二七歳になっていた。明治34年(1901年)の頃だった。

郷里の隣町の小野出身で野口弥三という第一銀行の重役(副支配人)になった方の世話で、辻新次(元文部次官、当時は60歳で帝国教育会長、後に男爵となる)の書生をしてなんとか食いつないで過ごす。

野口弥三氏は辻新次氏の令嬢信と結婚、辻氏は岳父に当たる。その子供が後に有名な画家となる野口弥太郎である。

辻氏の援助のおかげで、英・漢夜学塾を設け、又一方、文学社という出版会社の原稿など書いて、独立生活ができるようになった。

明治35年(1902年)「小学各科 教案範例」富永岩太郎講述 前田又吉編 同文館 を初めて出版した。

 

3;新聞界に入る。

明治35年、又吉27歳の秋、諌早出身で有名な漢詩人野口寧済の世話で横浜の新聞社、「横浜新報」に入社した。これが新聞記者の第一歩であった。

翌年、政友会代議士日向輝武と出会い、その勧めで日向の選挙区群馬県の有力者の娘新井イチと結婚する。日向は移民事業で財をなし、手広く事業に投資していた。その中に電報通信社(電通の前身)があり、その会長になっていた。日向の要請で通信社の仕事に鞍替えし明治38年(1905年)東京に戻る。

しかし、通信社に仕事に飽き足らず、「書く」ことで身を立てようと、出版事業に取り組む。しかし、文章を書く才能は豊かであったが、事業を展開する営業力、経営力に欠けていたため、悪戦苦闘、その他ランプの口金などに投資したが失敗し、莫大な借財を負うこととなった。明治41年(1908年)長女2歳、長男が生まれたばかりで路頭に迷う人生最大の危機だった。この危機に日向氏の援助がありなんとか切り抜けた。

学生時代に小説の手ほどきを受けた小杉天外が「無名通信」という雑誌を発行する企画があることを知り、編集長として職を得、3年ほど続ける。

少し生活ができるようになり二女も誕生し先行きに明かりが見えた矢先、妻イチが腸チフスであっけなく死んでしまった。乳飲み子を含む3人の子供を抱え再び苦闘の日々が訪れた。幸いなことに妻を看護してくれた病院の看護婦マチ子と再婚することになり、以降は順調な生活となった。

明治44年(1911年)毎日新聞(東京横浜毎日新聞を改題)が報知新聞に身売りした時期に再び新聞社に入った。この時すでに36歳になっていた。

蓮山の新聞社での仕事は政治部に所属し、政友会記者クラブ十日会のメンバーになり、報道記者ではないがいわゆる遊軍記者で、当時新聞界では「閑文字」と呼 ばれ、政界の昔話や、人物評論や、社会批評などの雑文書きであつた。 中でも人物批評は得意分野でその取材で多数の政界人と面識を持った。いわゆる桂園時代西園寺総裁率いる政友会に密着し人脈を構築しニュース源をひろげかつ信頼性を獲得していった。

 

4;「今日主義の原敬」で世に認められる 。時事新報時代と「太陽」

大正3年(1914年)2月。毎日新聞で「議会の闘将」と題し、犬養、尾崎などに加え、政友会の実力者原敬の人物評論を執筆、評判を得る。経営が報知から山本実彦(後改造社社長)に移るのを期に退社、フリージャーナリストを目指す。

雑誌「太陽」編集長浅田江村より原敬について論評に依頼を受け、世に出るチャンスととらえ「今日主義の原敬」と題する4百字60枚の原稿を書き上げ6月号に掲載となる。この原敬論は早速評判となり、時事新報と読売新聞から入社の誘いがきた。そこで当時日本一の新聞社であった時事新報に「太陽」に毎号書いてもよいという条件付きで入社を承諾する。

時事新報に入ると、早速三党首領(原、加藤、大養)の比較論を書いた。子欝秋元興朝の紹介で、原敬を訪問した。対談したのはこれが最初である。

原敬はニコニコ顔で「君はわが輩の批許を書いたそうだが、 まだ読んでいない。読んでみるかな」と言って、奥から「太陽」を持って来て、声高々と読んだ、自身を非難したところも、微笑しながら読んだ。そして読み終つてから、「批評は君のものだから君に任かせるが、事実はわが輩のものだから、間違いは正しておく」と言って、二、三の誤りを指摘した。その態度が、子か孫かに対するような風であって、蓮山は初対面という気はしなかった。

それ以来、原は蓮山を信頼し、言論界方面のことについては、蓮山に相談した。 また進言にも大概、聞き容れた。原敬の名で新聞雑誌に発表する文章は殆ど蓮山が代理執筆した。

大正4年(1915年)、大隈内閣による解散総選挙が決まった。そこで蓮山は「逐鹿閑話」という選挙にまつわる話を毎日63回にわたり連載した。 また「人物の印象」という人物評論も連載した。

一方雑誌「太陽」へは、「党首月旦」「政党史論」などを毎月執筆、中央公論へも「加藤外相論」を執筆した。

大正5年(1916年)になると「太陽」に「政界の表裏」を無名隠士の名で連載が開始された。

また、時事新報で「政変物語」を連載し、この連載を翌大正6年(1917年)に出版、徳富蘇峰三宅雪嶺石河幹の推薦文を得た。

大正7年(1918年)雑誌「太陽」に連載中の「政界の表裏」が万朶書房吉野作造の出版社)から出版。

政界のウラ話の情報は勿論政友会諸氏が情報源であったが、政党情報以外については枢密院顧問官伊東巳代治が情報源であった。伊東巳代治は大の新聞記者嫌いで記者をめったに寄せ付けなかった。蓮山は同郷(長崎)のよしみということで近づき、絶大なる信頼を得た。

大正7年原敬内閣が初の政党内閣、平民宰相が誕生した。蓮山は原邸には「木戸御免」で毎日出入りできる程になっていた。「そのために秘密情報も得ることができたが、時事新報の紙面を、政友会のためや、原さんのために濫用したことは断じてない。それにまた、僕は報道記事を書く任務は持たなかつたのである。」と述べている。

大正デモクラシーの社会にあって開放的で華美な風潮が流れる中、大正8年(1919年)「社会の黴」なる社会批評を夕刊に連載し、政治評論に加え社会評論家としても認知された。

大正10年10月原敬、加藤高明犬養毅三氏の人物評論「三頭首領」を出版。

大正10年11月原敬東京駅にて刺殺された。蓮山は悲報に接し号泣した。

5;原敬の偉業をまとめる 、中央新聞時代と「政界往来」

蓮山にとっては人生のメンターであった原敬を失い、その後の高橋是清政友会総裁に幻滅し、これを期に時事新報社を退社。47歳であった。 暫く、蓮山は「文化通信社」なる月刊誌を発行した。 大正12年(1923年)月関東大震災を麹町下2番町で遭遇。そのすさまじさを「太陽」投稿する。

大正13年(1924年)1月、政友会が分裂する時期、政友会の機関新聞、中央新聞に主筆として迎えられた。

「政治は人格なり」(大正13年2月)、明治大正の政治家の人物評論集を新作社より出版。 大正14年(1925年)「政党哲学」を浩洋社より出版。本書を原敬先生の墓前に捧げる。

大正14年7月より中央新聞紙上に時事コラム「鼻苦笑」を蓮山生の筆名で毎日書き始める。その後「蟹の泡」「野の声」と題名の変遷はあったが昭和7年(1932年)8月まで続ける。

震災での被害は免れたものの都内を避け田園都市開発のすすむ荏原郡馬込村出穂山(目蒲線の大岡山)に転居、自宅を手に入れた。

昭和に時代が変わり、原敬の偉業をまとめる原敬全集刊行会の編集委員となる。

昭和4年(1929年)に完成。また立憲政友会報国史編纂人になり、上下巻を昭和6年(1931年)に完成した。

昭和5年木舎幾三郎が創刊した「政界往来」に同人として参加、毎号記事を提供した。

この活動は中央新聞在籍中も続け、昭和10年9月床次氏が亡くなるまで5年間続いた。

昭和7年(1932年)犬養内閣ができると、内閣書記官長 からの要請で内閣嘱託となる。また鉄道省の嘱託もしていた。床次竹二郎鉄相が洋行の費用を作ってやるからというので9月に出発のつもりでいた。ところが突然時事新報の武藤山治社長から社友として帰ってきて欲しいと申し出あり応じる。

昭和9年(1934年)3月武藤山治社長が狙撃されて暗殺された。これにより時事新報の再建は難しくなり、蓮山も退いた。

政党政治の本場英国に1年ほど研究に出かけるつもりであったが、それを断念したが政党政治を分かりやすく紹介する目的で「政党政治の科学的検討」を野依秀市の秀文閣書房より出版した。

 

6:伝記編纂に取り組む

昭和14年(1939年)「床次竹二郎伝」を2年8ヶ月かけ完了。これほど精神を傾倒した仕事はかつてなかった。

昭和15年(1940年)念願の「原敬伝」に着手。7月「第二次近衛内閣、奇奇怪怪の政変有り。政党の醜態見るに堪えん。」蓮山は政界との縁を切りもっぱら原敬伝完成に進むべく決心する。床次伝の10倍20倍の苦心となり、蓮山66歳、正に命がけの仕事こととなった。

昭和17年(1942年)9月。最後の一章を残し完成。高山書院に原稿を渡す。綱島温泉に通うも元気ないほど疲労困憊、半病人の体となる。

「原敬伝」は心血を注いだかいがあり読者に好評を得、増刷となった。戦後原敬日記が公開されるまでは、原敬研究の重要な文献であった。

中橋徳五郎伝」牧野良三編上巻執筆、下巻を蓮山が書き直し昭和19年(1944年)2月完成。

高山書院より、原敬、星亨、床次竹次郎伝を本政党史とし出版したいとの申し出あり快諾。早速床次伝を改修し2月に完成。原稿を渡すも折からの戦時物資調達ができず発刊されなかった。同様に「金玉均伝・下巻」も原稿を渡したが遂に発刊されなかった。

戦局はますます風雲急を告げ11月になると東京空襲が始まり、蓮山は故郷長崎の森山村に疎開することにした。長男は群馬県に疎開、二女は結婚し満州におり、家族がばらばらに散ってしまった。

長崎は安心して疎開できる場所ではなかった。連日空襲警報に悩まされ、遂に8月9日長崎市内に原子爆弾が投下、15日に終戦を迎えた。

 

7:戦後の活動

蓮山は70歳を超えていた。しかし、まだやり残した仕事が残っていた。「星亨伝」を何としても書きたかった。しかし、資料はすべて東京の自宅に残してきた。自宅が無事かどうかも分からない。

昭和21年(1946年)4月。ようやく帰京。早速「星亨伝」に取り掛かる。

昭和22年(1947年)10月。「星亨伝」完成。病臥中の妻の面倒をこれから見られると思う矢先、妻の病状が急変し亡くなった。

政党3部作「星亨伝」「原敬伝」「床次竹次郎伝」の完成を以て政党誕生期、発展期、衰退期の歴史と人物が描けた。

昭和25年(1950年)から26年にかけて決して世に出ることはないと思われた「原敬日記」が公開された。

蓮山は日記を読み込み、今まで分からなかったこと、誤解していたことなど新たな事実を発見した。戦前にだした「原敬伝」を訂正し、何時でも改訂版が出せるように整えた。

昭和33年(1958年)時事通信社が「日本宰相列伝」を企画がその第7巻として「原敬」の執筆依頼があった。ようやく念願の改定がなされた。蓮山83歳になっていた。

戦後、後輩の山浦貫一野村秀雄などの尽力で「選挙」という雑誌に定期的に原稿を書いてきた。

昭和26年(1951年)「原敬日記で解かれた歴史の謎」9月からは「東西古今、選挙物語」を9回連載。昭和29年(1954年)1月「歴代総理大臣」伊藤博文から始め第24代加藤高明を書き終えたのが昭和35年(1960年)8月だった。これを「歴代内閣物語上、下巻」として時事通信社が昭和36年(1961年)2月出版。もう蓮山の目も衰えていた。続いて「自由民権」時代、は昭和28年(1953年)東京音羽の鳩山一郎邸で自由党幹部が集まったおり、日本には一貫した政党史が無い。前田蓮山に執筆を依頼してはどうか。ということがきっかけで書き始めたものの途中で保守合同などがあり意欲が減退していたが、時事通信社の勧めで公刊の運びとなった。563pの大作である。「88歳の老生にとって誠に望外の幸せと言わなければならない。私は生涯を通じて、政治の研究に専念したけれども、なお尽くさぬ部分が多い。それは誰か適任者によって完成されるであろうことを念じて、私の受け持つ範囲の幕をとじたいと思う。」そう言い残し、10月5日に88歳の生涯をとじた。

 

前田蓮山著作一覧

前田蓮山が出版した書籍の一覧。現在は絶版になっているが、国会図書館に蔵書されている。

また古書としてネットで購入できるものもある。

                                                                                                                                                                               
 

表題

 
 

出版日

 
 

出版社

 
 

備考

 
 

小学各科教案範例

 
 

明治35729

 
 

同文館

 
 

前田又吉編

 

富永岩太郎講述

 

遊佐誠甫増述

 
 

政変物語

 
 

大正6年3月

 
 

文成社

 
 

時事新報に8月21日から始まった連載は、12月7日までほぼ毎日掲載となり、3ヶ月半の連載となった。それをまとめ出版した。

 
 

政界の表裏

 
 

大正7年2月

 
 

萬朶書房

 
 

雑誌太陽に連載した政界夜話。無名隠士の名前で執筆。出版社は吉野作造の弟吉野正平。

 
 

社会の黴

 
 

大正8年10月

 
 

アルス

 
 

大正8年春に時事新報に連載した社会評論が評判をとり北原白秋の兄鉄雄より出版の依頼が有った。

 
 

労働運動者の棚卸し

 
 

大正9420

 
 

白水社

 
 

無名隠士の名前で執筆。

 
 

三頭首領

 
 

大正10年10月

 
 

文化出版社

 
 

原敬、加藤高明、犬養毅三氏の人物評論

 
 

原敬翁遺墨目録

 
 

大正11年3

 
 

大光社

 
 

原敬の筆跡を光筆版にて刷り頒布した

 
 

政治は人格なり

 
 

大正13年2月

 
 

新作社

 
 

雑誌、新聞に書いた人物評に書下ろしを加えた。当時の政界人を紹介。

 
 

政党哲学

 
 

大正14年12月

 
 

浩洋社

 
 

本書を原敬先生の墓前に捧げる

 
 

原敬全集

 

 

 
 

昭和4年6月

 

 

 
 

原敬全集刊行会
 
責任者:田中朝吉

 

 

 
 

編集委員
 
全集に収録の原敬の新年談話等は蓮山が書き、機関誌「政友」に掲載したと語っている。「逸話」集は蓮山も執筆。

 
 

立憲政友会報国史上、下巻

 
 

昭和6年

 
 

立憲政友会報国史編纂部

 
 

編纂人

 
 

政党政治の科学的検討

 
 

昭和11年9月

 
 

秀文閣書房

 
 

政党とは何か、英国の政党を中心に科学的検考察をする。

 
 

床次竹二郎伝

 
 

昭和14年3月

 
 

床次竹二郎伝記刊行会

 
 

編纂人

 

原敬以降の政党政治の集大成として貴重な伝記

 
 

原敬伝 上、下巻

 
 

昭和18年3月

 
 

高山書院

 
 

原敬研究の重要な資料として今日も多数引用されている。

 
 

中橋徳五郎   上、下巻

 
 

昭和19年

 
 

中橋徳五郎翁伝記編纂会

 
 

編纂人

 

床次竹二郎伝と並び政友会の動きを知る重要資料

 
 

金玉均伝下巻

 
 

昭和19年

 
 

慶応出版社

 
 

戦時中で上巻のみ出版(菊池謙譲著)。原稿は依頼人に渡したが下巻は未発売

 
 

星亨伝

 
 

昭和23年3月

 
 

高山書院

 
 

政党三部作として戦後、疎開先の九州から戻り、直ちに執筆をした。

 
 

政党のはなし

 
 

昭和24年2月

 
 

高山書院

 
 

雑誌政党(政党社)に執筆したものを書き改めて出版

 
 

原敬

 
 

昭和33年4月

 
 

時事通信社

 
 

日本宰相列伝7

 

原敬日記の公刊により新たな事実が明白になったことから改訂版として発刊した。

 
 

歴代内閣物語上、下巻

 
 

昭和36年2月

 
 

時事通信社

 
 

雑誌選挙に連載したものを出版した。伊藤博文から加藤高明内閣まで明治、大正期の政治史の大作。

 
 

「自由民権」時代

 
 

昭和36年10月

 
 

時事通信社

 
 

87歳、全力を尽くし完成。

 

 

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